長篠の戦い①

長篠の戦いときいて、どんな戦いを思い浮かべるだろうか。教科書にも載るほどの有名な戦いである。織田信長、徳川家康、豊臣秀吉というビックネーム3人が出陣しており、武田の騎馬隊を鉄砲で完膚なきまでに打ちのめした戦いだろうか。すでに騎馬戦は古い戦いで、鉄砲を大量に使った新しい戦法を世に知らしめた戦いであろうか。どちらにせよ、『武田の騎馬隊vs織田の鉄砲戦』というイメージを持つ人が多いように思う。筆者も中学の社会科で、合戦図を見ながらそう説明を受けたのを覚えている。しかし甲州からはるばる凡才の二世タレントがやってきてボコボコにされて滅亡したなんてあまりにも悲しい印象である。確かに信玄は天才だ。勝頼が本当に愚鈍だったかはわからない。しかし織田・徳川と武田の争いは長く、そんな単純なものでもない。一つの闘いでもドラマはいくつも生まれる。その中から3つのエピソード紹介する。

写真:馬防作


信玄の死と家康の強運


武田信玄の死によって、戦国の勢力図が大きく変わってしまったのは言うまでもない。


信濃・駿河・遠江さらには三河にまで進出した信玄は、元亀3年に三方ヶ原にて徳川家康を完膚なきまでに叩きのめした。命からがら浜松城に逃げ帰った家康であったが、絶体絶命なことに変わりはなかった。領地をほぼ分断された状態になった家康の勢力は、諸将の寝返りも相次ぎ弱体化していた。


信玄があと1年でも生きていたら、家康なんてあっという間に葬り去られていたことだろう。しかし信玄の寿命は絶妙なタイミングで尽きるのである。

家康は歴史上トップレベルの強運の持ち主である。すぐに長篠城と足助城を奪還し、三河・遠江の連絡を回復する。長篠城には武田方から寝返った奥平貞昌に守らせた。



織田の援軍

天正3年、山県昌景ら武田軍2万の軍勢が長篠城を包囲した。武田軍は、城の東側に位置する鳶巣山に付城を築くなど砦に5つの付城を築く。兵数といい万全の体制といってよい。


武田軍の攻撃は昼夜を問わず行われた。長篠城は2本の川に囲まれた天然の要害をもつ堅城で、守る兵の士気も高いため、大軍といえども短期間で落とすのは難しい状態であった。


家康は焦っていた。織田の援軍が来ない。高天神城攻防戦では織田の援軍が間に合わず、落城させてしまった苦い思い出がある。


ここで長篠も見捨てて落城させてしまっては、もう二度と武田から徳川へ寝返る国衆は現れなくなるだろう。
家康は援軍差し向けてくれないなら武田に寝返るとまで書いて、何とか織田の援軍を東三河まで派遣することができた。

信長も、近畿地方やその他一揆等の鎮圧に精一杯で、助けたくてもホイホイ出せるほど余裕があったわけではないのだが。いずれにせよ、武田は織田・徳川を滅亡ギリギリまで追い込んでいることがわかる。



鳥居強右衛門、命懸けの忠義


長篠城への援軍について語るうえで、絶対にスルー出来ない人物がいる。鳥居強右衛門である。強右衛門は長篠城の奥平貞昌の家臣である。


ぎりぎりの状態で何とか耐えていた長篠城であったが、限界は近づいていた。武田方の包囲は厳しく援軍の要請のために城から抜け出すのも難しい状態である。そんな時に強右衛門は志願した。



強右衛門は武田の包囲をかいくぐり、堀を泳いで抜け出し、岡崎城までたどり着く。

無事援軍の約束をつけるも、帰路にて武田軍に見つかり捕縛されてしまう。捕らえられた強右衛門は勝頼の前に出ると、援軍の要請のため城を抜け出したことをありのまま伝えた。勝頼は感心して、城兵たちに向かって

「援軍は来ないこと」
「早急に開城すること」

を叫ぶよう命令し、強右衛門もこれを承諾した。

いよいよ味方の前に連れ出された強右衛門は、

「数日のうちに援軍が来る」
「持ちこたえるように」

こう、城兵に伝えたのだ。

そしてそのまま処刑される。しかし、援軍の情報と、強右衛門の死に鼓舞された城兵たちは、飢えながらもなんとか持ちこたえ、城を守り切ることができた。

強右衛門は死してなお、使者の使命を全うしたのである。



以上長篠の戦いにおけるエピソード3つを紹介した。次回以降、設楽原での決戦についても調べてみようと思う。また、鳥居強右衛門については、別の記事でもう少し掘り下げたい。

歴女のひとりごと

歴女歴13年の歴女23歳が、歴史記事を書き散らすブログ。 主に戦国時代、戦史。たまに幕末や鎌倉、南北朝など動乱期多め。

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