不運な戦国武将 真田幸村

不運な戦国武将といえば、真っ先に真田幸村を思い浮かべてしまう。

NHK大河ドラマ『真田丸』では主人公として描かれ、話題となった武将だ。彼はかの信州の名将真田昌幸の次男であり、最後には「日本一の兵」と称された猛将である。しかし最後の最後まで、その実力が表に出ることはなかった。実力を発揮するタイミングが死の間際までなかったことが、真田幸村の最大の不運といえるだろう。

真田幸村は永禄十年生まれとされる。同学年には奥州の覇者、独眼竜伊達政宗や西国無双立花宗茂などが名を連ねる。

永禄十年は、織田信長が美濃を制圧し、おなじみ「天下布武」の朱印を使用し始めた年である。つまり彼らは信長や家康より一世代分は年少で、生まれたころにはすでに天下の情勢がある程度固まっていたことになる。そのため政宗は自分の生まれが遅かったことを嘆いたとされているが、それでも奥州でその勢力を最大にまで拡張している。立花宗茂は九州で数々の武功を上げ、そして二人とも朝鮮の役に参陣している。

一方幸村は、関ケ原の戦いまでは父の威光に隠れ、武勇を示す機会はほとんどなかった。幸村は青年期を人質として秀吉のもとで過ごしており、秀吉の天下統一の後は武勇を示す機会もなく、朝鮮へも出兵することもなかった。

そして秀吉の死後、ついに関ケ原の戦いが勃発。犬伏にて兄信之と袂を分かった幸村は、父とともに石田三成方につき、上田城に籠城する。

上田城の戦いでは、秀忠率いる徳川本軍万人の軍勢を万人の軍勢で足止めし、関ケ原本戦に遅刻させるという戦果を挙げた。

しかし肝心の関ヶ原では、小早川秀秋の寝返りやそれに伴う大谷吉継の戦死などあいまって、半日で西軍は総崩れとなり敗戦してしまう。不運にも幸村は、西軍の敗北に伴って父昌幸とともに九度山で蟄居となった。


写真:関ケ原古戦場石田三成陣の馬防策


やがて大阪の陣が始まると、幸村は九度山を抜け出し大阪城の秀頼のもとへはせ参じる。しかしこの時幸村は「真田昌幸の息子」という肩書しか持っていなかった。

そのため、発言力も豊臣恩顧の家臣たちに及ばなかった。父が発したら通っていたであろう作戦も悉く通らない。籠城はせずに進軍し、宇治・瀬田に陣を構え徳川方を迎え撃つ作戦は豊臣家重臣によって却下されている。秀頼自ら出撃する案も退けられ、結局籠城作戦がとられている。

大阪城は天満川などの自然の要塞に囲まれ、広い堀や大きな塁壁を誇る巨大な城であった。重臣たちは、秀吉の築いたこの城の防御力に絶大な信頼を置いていたのだろう。そこで幸村は、城の弱点である平野口に「真田丸」を築くことを提案、反対意見も多かったが了承された。

1615年11月、徳川勢は20万を下らない。大軍が大阪城を包囲した。対する豊臣勢は10万。戦の火ぶたが切られたのは、未明であったとされる。

徳川家康の命を受け、蜂須賀至鎮らの軍勢が木津川口の砦に攻め込んだ。この時砦を守る明石全登は軍議で不在だったため、砦はすぐに落ちた。ここから数日のうちに徳川勢はじりじりと前進し、とうとう「真田丸」へと攻め寄せた。真田丸に控えていたのは幸村率いる約3000人の軍勢である。

前田勢が篠山を攻めたが、そこはもぬけの殻であった。幸村は事前に兵を後退させていた。そしてさらに前田軍を挑発する。それを受けて前田軍は堀へと乱入してきた。しかしそれは真田方の巧妙な作戦で、誘い込まれた前田隊は真田丸から降り注ぐ銃弾や落石を一方的に浴びることになり、真田丸に侵入できぬまま敗走した。真田丸の戦いは、幸村の勝利に終わった。

大阪城内では主戦派の幸村ら浪人衆と和睦派の豊臣家臣で対立していたが、淀殿は主戦派であった。その情報を得た家康は、淀殿の居場所に向かって大砲を打ち込み始めた。するとその攻撃によって淀殿の侍女が数名死亡した。その光景を見た淀殿は、すっかり戦意を喪失し、和睦をすすめることにした。和睦の条件は、大阪城の堀の埋め立てなどいくつかに及んだ。

和睦が成立した後も、幸村をはじめとする浪人衆は、大阪城にとどまっていたとされている。

その間に、幸村は叔父の信伊を通じて家康から10万石で寝返らないかと持ち掛けられる。冬の陣、真田丸での功績にて幸村は父の陰から顔を出し、やっと世間に「真田幸村」として名前が知られることとなったのだ。

しかし、数か月後の夏の陣で、幸村は家康本陣跡一歩手前まで攻め込む奮闘を見せるも、あと一歩届かず力尽きてしまった。

このように幸村は大名にも劣らない実力を持ちながら披露する機会を悉く失い、最後の最後に名を残すことができたものの、ついに大名に取り立てられることもなく討ち取られた。

実力があってもそれが秘められていては、ないのと同じことである。

幸村が朝鮮の役に参陣していたら、自軍を率いて戦に参戦したら。大阪の陣と同じように活躍し、浪人中にスカウトを受けていた可能性もある。幸村は、実力も才能も申し分なかった。しかし、生まれるタイミングが遅かった。そして同い年の武将たちと比べても、圧倒的に発揮する立場を得られなかった。

運も実力のうちとは言うが、できればそれなりの評価を生きている間にされたいものだ。

歴女のひとりごと

歴女歴13年の歴女23歳が、歴史記事を書き散らすブログ。 主に戦国時代、戦史。たまに幕末や鎌倉、南北朝など動乱期多め。

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